前編
学君、彼は自分で自分の事を極楽蜻蛉だと言っていた。
彼の両親、母からはマナブさんと呼ばれ父からは、ガクと呼ばれていた。
彼の父から彼を学ノ信と名をつけたかったのだと聞いた。
やさしい母親に厳格な父親、絵に描いたような昔の風景。
そして今で言うチャラい性格の彼は新聞店に新人として入って来た時からその性格は発揮されていた。
彼の受け持ち区は代々木上原を中心とした八区
日経渋谷専売所は神山町にありそこは坂の途中にあり8区はそこから豪邸が並んである松濤のダラダラ坂を登っていくのだ。
そして山手通りを越してから配達が始まるのだ。
彼を教えるのは大先輩の横田さん。
横田さんも変で変わった人で、雨でもないのにいつも長靴を履いている。
司法書士を目指していると聞いているが酒、タバコはまだいいとしても徹マン(徹夜マージャン)などをしょっちゅうしていて
とても勉強をしているとは思えないのだ。
でもいつも笑顔で人に優しい。
それが禍した。
横田「まずは、私の後からついて来てゆっくり覚えていけば良いから」と、そんな風に言ったものだから
学君はのんびりただ後ろについていくだけの日々、一週間があっという間に過ぎた。
横田さんが「そろそろ新聞配りできるだろう先に行って配って見て」と言われた学君。
彼は「エ!!」と、
坂道の中頃にある店に、「アレ初めに下に行くのか上へ上がるのか、どっちだっけ?」ときたもんだ!!
呆気にとられた横田さん、それからスパルタ?で教え込んでいった。当然なのだが。
オット、彼、学君の容姿を書くのを忘れた。
中肉中背、ゴクゴク普通なのだが丸顔で髪をセンター分け若干長目の髪、目が細い
しっぺさがりで笑い顔、例えていえば恵比寿様を若くした様な優しさ顔立ちだ。
夏にはTシャツを着ないでサロペットのみ彼自分流のおしゃれ?
一年浪人して法政大へ
私より新聞店へ入ったのが一年後だった。
最初の頃は私をさん付けで呼んでいたが同い年だったのですぐに親しくなり呼び捨てするようになった。
本棚作り
半日かけて、しかも時ちゃんと一緒に作っていたのに出来ない。
それで自分に泣きを入れて来たのだ。
学君「助けて~組み立てられない!!」っと。
L字鉄製の柱、真っ赤に塗られた木の枝、私の肩ぐらいの高さの棚
二人掛かりで半日かけてもガタガタ、全然ダメ!!
何でこんな簡単なのが出来ないの?
呆れる思いで、組み立て直してあげた。
後日彼が4年制大学を卒業して田舎へ帰る時、棚を置いて行った。
私はその棚を貰い受け未だに使い続けていた。
彼はよく部屋に遊びに来た。
もちろん彼以外の仲間たちもだ。
皆の一番の目当て、茶、菓子いつでも私の所に来れば、うまい茶と菓子が食べられるなどなど
そしてレコードを聞くなどなど
学君は私の本棚を覗いていて、この本貸して言って手に取ったのは
アインシュタインの相対性理論、文学部の彼が変だなと思いながら
私は「いいよ、もう読み終わってるから。」と貸してあげた。
それから2ヶ月ぐらいした時に「どうアレ読み終わった。」と聞いたら
彼は「いやいや」と
私が「どのくらい読んだの。」とつっこんで聞くと
学君「1ページ半ぐらい。」と言う。
私「二か月で1ページ半?どう言うこと?おもしろくないの?」
学君は言った「あのアインシュタインの本は睡眠薬のようなものだ、眠れなくて困っている時にあの本を読むと
チンプンカンプンでもう3行で眠くなるんだよ。」
すごく良く効く薬だと言う。
相対性理論の本にはそんな効能があったとは!!
さて彼には幸運の神様が付いているのかと思った出来事がいくつかある。
まず初めに、新聞配達店に入ると必ず区域持ちとはその区の担当の事で最低でも一年(私は二年区域持ちだった。)
その区の配達はもちろん集金をするそして順路帳書き作りナンバーリングから始まり1つの証券に印を5ケ所そして名前を書くと
手間と時間が掛かった雑用も多かった。
それを彼は半年で卒業
なぜかと言うと、運転免許を持っているのが彼だけだったから
なに、それ、どういうこと?って
新聞配達は自転車でするのだが新聞を前にカゴに山を積む、もちろん後の荷台にも積むのだが、それでも足りないのだ。
肩紐と言って柔道の帯の様な丈夫な布で出来ている紐で包んだものを配達の途中に2、3、4カ所置いてもらう、それを車で運んでもらうのだ。
我々は転送と言っていた。
運転免許を持っている学君が抜擢されたのだ。
そして次の年には私と一緒に代配となった。
まったく彼の出世の早いのなんのすごい。
代配とは区域持ちが一ケ月に4回休むのだがその時に代わりに新聞を配る人の事、
そしてその区域持ちが辞めた時は代配が区域持ちになるのだ。
4月に新人として入って3か月とまず夏休みに入る前に辞めてしまう人がかなりいる。
その時の為に、多めに代配を置いておくのだ。
だから区域持ちは一ケ月休みは4日なのだが、代配は、一ケ月20日配るだけでよい。
4月5月は15日ぐらい、20以上は手当が出た。
年末頃になると代配の休みがなくなる年もあった。
ところが学君の在籍していた三年間は、辞める人もいなく代配天国だった。
また専売所対抗野球は我ら渋谷専売所が優勝するなど良いことが多かった。
彼女に振られた夏のこと
私と学君が代配になった年
夏、間近にせまった時
学君がいつもの様にふらりと部屋に来るなり
学君「俺、奈美さんに振られちゃった。」
私「どうしたの?」と聞くと
学君「聞いてよ、奈美さんとは高校時代から付き合っていて将来、結婚の約束をしてたんだ」
学君「しばらく連絡してなかったんだけど、今日電話したんだ。」
学君「今度夏休みもらって帰るんだ。おみやげ何がいい?」
学君「そうだ、ビキニなんてのはどう?」
学君「奈美さんブラジャーをつけて俺は下のパンツ履いて海に行こうよ!!」
奈美「学さん、ちょっと私の話を聞いて!!」
学君「何?奈美さんは何か違うものが良いかな?」
奈美「学君、私、他に好きな人が出来たの。」
学君「え!!!」
絶句
学君「こんな感じなんだよ…」
めずらしく肩を落としてしょげている学君だった。
東京に上京して一年と数か月奈美とは合っていなくて、その上半年ほども電話していなかったんだと言う。
学君「ア~ア、嘆いていもしかたない。」
変わり身の早い学君。
すぐに次の計画を言い始めた。
学君「ねえ七月の末と八月の初め合わせて休みを取ろうよ。10日間ぐらいは大丈夫だよね。」
学君「俺の田舎島根に一緒に行こうよ!」
学君「信金の窓口係をしている奈美さんを指さして俺を裏切ったのはあの女だ!!と言うんだ!!ウン!キメタ!」
学君「一緒に行ってよね。」
私「え~やだよ~」
学君「お願い!!」
学君に押し切られてしまった。
人生は長いいや短い旅と考える人がいる。
するとこの10日間余りのほんとに短い旅ではあるが、今振り返ってみるとものすごく大きな意味があった。
なにしろめちゃめちゃ面白かった。
一生記憶に忘れずに残ったお金に変えられない財産になったのだ。
私が思うに旅行の楽しみは大きく分けて三つあると思う。
その一は、旅行へ行く前にその計画を立て準備をしたりその旅行に思い馳せたりと
そのニは、もちろん旅行そのもの
その三は、帰って来てからの写真作りなどの思い出の整理を
初めての長期(いや中期か?)旅行なので、二人で色々と話し合った。
山登りの格好で行こうと決めた。
さっそく、上野のアメ横に買い物に行った。
服、上着はアメリカ軍払い下げカーキーシャツこれはMサイズでも大きく、
それに夏だからと学君は、袖を肘の上の所をハサミでチョキンと切ってしまった。
私のも一緒に切られてしまった。
おまけに学君はこのシャツにタバコを押し付け穴を開けている。
このシャツは大当たり、最高に良いものだ。
汗かいて濡れても川があればバシャバシャと洗えるしなにしろ丈夫だ。
以降登山にハマって何度も行ったがいつもこのシャツを着ていた。
下はニッカポッカ
靴は登山靴
おまけにテントと寝袋も用意した。
バックパッカーは、アルミの枠がある背負子(シャイコ)の様なもの
しかしこれは後で、八ヶ岳へ行った時これは違うとそれ以後の山登りからは小型のバックになった後日の話。
色々と準備をした。
この旅行の最大の目的は、学君を振った奈美さん一矢報いるのだ。
それ以外は何の計画も立てていなかった。
すべて学君まかせ、私もかなりいい加減だ。
さあ旅の始まりだ。
学君の家へ行く前に隠岐島へ行こうとなった。
フェリーに乗り日本海に出航
風が気持ち良い
甲板から海面を眺めていた。
すると学君が「あれ~鳥が自殺した~」と声を上げた。
「鳥が海に飛び込んだまま上がってこないよ」と言った。
何だ~どうした?
よく見ると船に驚いた飛び魚が何匹何匹も船の進行方向前方をしばらく一緒に前方へ飛んで水に帰って行く光景だったのだ。
私も初めて見て驚いたが学君は飛び魚と鳥を間違えた。
学君「いや、まいった~だけど初めて見た!!けどおもしろいしすごいね。」
私「ん~」とうなずいた。
一人の女性がクスクス笑いながらいるのに気づいた。
帽子を被っていて笑いで少し下を向いていたのではっきり分からないが若く輝いているように感じられた。
学君はすかさず彼女に話しかけ始めた。
学君「我々は山男なんだけれど今回は海にしようと来たのだけれど、足の向くまま気の向くまま、海と言う以外は行き場所を決めていない、君はどこへ行くのかな?」
すると彼女はまだ口元に笑みを浮かべながら
「船を乗り換えて知夫里島へ行くの」と言う。
学君「我らもそこへ行くか」
旅の計画など、まったくないのだ。
さて知夫里島に着いてみると彼女はユースホステルなると所に予約してあった。
行き当たりばったりの我らはユースホステルの受付の人に「本日はいっぱいです。」とけんもほろろと断られてしまった。
しょうがない。
隠岐島へ戻る船も時間でもう出ない。
日も水平線に沈み始めている。
よし、じゃ野宿だ、そうしよう、となった。
水だけユースホテルでもらった。
水が10リットル入るビニール製の折り畳める容器を持って来ていた。
それを抱えて小丘を越える頃には日は沈み辺りは暗くなってきた。
我らの恰好は登山者なのだが一度も山なるものに行った事もない、否、高尾山には行ったか
機械の力を(ロープウェイ)借りたので、ただの散歩に毛が生えた様なものだ。
ましてや野宿などしたこともない。
海辺にせまり、ここにしようと決めた場所は船を引き上げてあるコンクリの上だった。
当然テントは張れない。
ますテントを敷いた。
寝袋も入らないで敷いて寝た。
夏だったので気持ち良かった。
満天の星空を見上げながらと書いているがアッと言う間に寝落ちしてしまった。
そうとう疲れていたのだろう。
明け方、何かの気配を感じた。
寝返りをうつと、何かがサササーと波が引いたり上げたりのような
そんな時、隣に寝ていた学君が
学君「ウワー何かいる!!」と大声を上げた。
それで完全に日が覚めた。
それの正体はフナムシだった。
ところで昨日もらってきた10リットルの水がない。
海につけておけば少しは冷えるだろうと足元から少し離れた波打ち際よりほんの少し先に置いていたのにほとんど波もなかったけれど
潮に巻き込まれ海に運ばれてしまったのか。
少し高台に登ってみると遥か沖に小さくプカプカ浮いて見えた。
海水パンツを履き替えて手ぬぐいをハチマキにして泳いで水を取りに行った。
取りに出てもどるまで一時間以上かかった。
その間、フェリーに合った。
溺れているんじゃないよ、笑いながら手を振った。
早々に知夫里島を後にして、フェリーに乗って隠岐島本島へ行った。
ここはキャンプ場があり、テントを張れた。
初めての経験だった。
見様見真似で何とか組み立てることができた。
歩き回った。
海の水はおどろくほど綺麗、透明で海の底までよく見える。
ウニが見える。
取ろうと腕を差し込むと海水が顔まで来てと言うよりどっぶりつかってしまう。
目が開けてられずウニを取るのも一苦労。
しかし取ったウニは食用なのだが名前を聞いて嫌いになった。
馬糞ウニだと言う。
隠岐島には二日滞在した。
本土にもどって今度は山口の秋芳洞に行こうとなったのだがもう日が沈みそうな時間、よしまた、野宿だ。
日本海をのぞむ砂浜だ。
知夫里より良いぞ、また、テントを敷く、横になり寝転ろむ頭の上の方は防波堤。
すこしするとその堤に人が集まり出して来た。
何にごとかな?
するとドドドドンと花火が海の方で上がった。
花火大会だったのだ。一番、良い席だったのだ。
ところがしかし防波堤の多くの人の中に悪いのがいて、タバコの吸い殻を投げてくる人がいた。
2度3度と、オイオイやめてくれよ!!と言うが花火の音に人々の歓声で聞こえるわけない。
花火が終わるまではどうしようもなかった。
花火が終わると祭りの後の静けさ、海の波の優しい音だけになった。
知夫里のコンクリートと段違いの気持ち良い砂の寝床に、いつしか夢の世界に引き込まれていた。
秋芳洞に行く前に腹ごしらえだ。
天ぷら定食を食べた。
そして今暑いからかき氷を食べた。
バスに乗った。
二人とも、気持ちが悪くなった。
なんとか吐くのは堪えたが、食べ合わせって本当にあるのだと思い知った。
秋芳洞に着いた時には二人ともふらふらダウン寸前、ゆえに秋芳洞の中に入ったが気持ちが悪くなっていた状態だからあまり記憶がなかった。
しかし二人とも若かったから少し休むと回復した。
次の向かったのは萩
津和野
松下村塾と言う漢字を自分は読めなくて「まつしたむら」と読んでいた。
私は歴史なんて、まったく興味がないというより嫌いだ。
高校の社会歴史の授業なんてクソ面白くもなかった。
先生は教科書を読んでいるだけでつまらない、眠気を堪えている目を開いているだけ、
幕末って何?そんなもんだった。
先ほどにも書いたが歴史など好きじゃなかったと言うか学校の社会なんて「クソクラエ!」だった。
どうでもいいし知りたくもない。
歴史なんて自分には関係ないと蓋をしていたのは自分だった。
極楽蜻蛉の学君と一緒にこの旅に出てなかったら今も変わらずにいたかもしれない。
おもしろかったのは萩焼きのゆ飲み茶碗それのどこがおもしろいって?
その茶碗に水、お湯を入れると、回りからしみ出してくるのだ、笑っちゃうわ。
津和野で思ったことが、道路側道に水路がある普通溝のところがその水路は綺麗で魚が泳いでいたのだ。
いっぱい買われているのだ。
小さな町だが美しい町だ。
私達が行った時は、まだ何とかジャパンとかスローガンを立ち上げてない時代で遊行者もそんなに多くなくゆっくり散策というのか見て回れた。
続く
戻る